◆東京大学総合研究博物館見学会聴講記◆

☆このレポートは、去る2026年3月7日(土)に赤門技術士会主催で開催された講演会の聴講記です。

 

東京大学総合研究博物館見学会聴講記

 

〔なんと、本郷キャンパスのしかも本郷三丁目駅寄りに、博物館があっただなんて、在学中はもちろん、この見学会まで全く知らなかった。さすが東大、奥が深い。館長の西秋先生からの直接講義と見学会だ。一体、何が収蔵されているのだろう? 今回の見学会は、会員のご家族として奥様はもとより、お子さんやお孫さんを連れた方のご参加もあり、とてもにぎやか。さぁ、はじまるぞ。〕

 

Ⅰ.西秋良宏先生のご経歴

 

 1983年3月文学部(考古学専攻)ご卒業、同大学院を経て1992年ロンドン大学で博士号を取得された。以降、東京大学東洋文化研究所特別研究員、東海大学講師、東京大学総合研究資料館・博物館助教授を歴任され、2006年より同博物館教授、2020年より同館長、2023年よりインターメディアテク館長を兼任されている。ご専門は西アジア地域の考古学で、1984年以来ほぼ毎年中東地区での野外調査を継続され、現在は主にアゼルバイジャンとトルコを研究地域とされている。

 

〔おー、考古学の先生だ。筆者の出身=工学とは、どちらかといえば対角なので、いままでに聞いたことが無いような新しいお話が聞けそうだ!〕

 

Ⅱ.講演「大学博物館のなりたち 総合研究博物館の現在」~総合研究博物館の概要~

 

1.歴史

 

 現在の形での設立は1996年だが、歴史は150年前に遡る。当時、標本は教育研究に不可欠とされていた。明治政府が東京大学を設立しようと、医学部開設時、外国人お抱え教師であるエドワード・モースがその必要性を力説し、1879年、教材としての標本すなわち博物館を準備した。薬用植物、回虫、動物の骨格・髑髏、外国産化石・鉱石、など合わせて約3万点。いまでもこの当時の標本の多くが残っている。

 

 設立当時の博物館は神田にあり、現在の学士会館の辺りだった。1879~1885年まで「大学博物場」として存在したが、この機能を神田から本郷キャンパスへ移設した時に閉館した。その時に、標本は各学部で列品室をもち、それぞれに分散して収蔵することとなった。

 

〔そういえば、在学時に工学部内の事務手続きは「列品館」の建屋に行っていたような気がする。当時はへんてこな名称だと思っていたが、この建屋の名残か!〕

 

 それらを含めて、関東大震災(1923年)で本郷キャンパスが崩壊。復興の過程の1928年、図書館の向かい側に、全学博物館の設置が検討されたが、実現せず。1925年竣工の工学部列品館に、建築学科の先生が収集した瓦や建物の模写などが収蔵された。他に文学部等の列品室も設置された。1966年に「総合研究資料館」としてようやく全学的な資料館ができた。その後、増築を繰り返し、1996年に「総合研究博物館」へ改組して、現在に至る。

 

 以降、収蔵だけではなく、展示にも力を入れていったが、本郷のこの博物館は狭いので、展示施設の拡大を図った。博物館直轄のヴァーチャル展示や、「小石川分館」のほかに、「インターメディアテク」など、民間や自治体などの数十か所で展示を展開し、「分散収蔵」の考えを取り入れている。150年前に3万点でスタートした収蔵品が、一年でおよそ3万点ずつ増加して、現在は410万点になっているにもかかわらず、過去30年間にわたり博物館建屋の増築がない、といった背景がある。

 

〔おー、インターメディアテクなら、2022年2月に当会Web見学会をやったところだ!ここの博物館につながっていたとは。〕

 

2.組織

 

 現在の博物館組織は、大きく研究部と資料部に分かれている。資料部には17部門があり、各学部等から収蔵品・資料を持ち寄って、これらを基本資料としている。研究部は、分野にとらわれない学際的研究を推進するとともに、独自のコレクション形成も推進している。コレクションは圧倒的に工学部系が多く、教材としてつくられた模型や測量の原器など。たとえば、インターメディアテクで展示している「工部大学校気候模型」は、「よくぞ保存してくれた」と表彰されている。

 

3.館長としての西秋先生のご研究

 

 この後、バックヤードで実物をお見せする東洋文化研究所からの資料が研究の中心となっている。1956年西アジア考古学の現地調査、1961年西アジア古人類(ネアンデルタール人)等の調査が開始されている。

 

〔うーん、どうやら先生のおっしゃる「資料」とは、会社員がイメージする「書類」のことではなく、石器・土器や人骨など、考古学上の「資料」=収蔵品のようだ。大分量の資料を現地で発掘して、国内に持ち帰り、これらの資料の多さが1966年の現在の博物館設立の契機になったらしい。〕

 

 先生ご自身は1984年からこれら「考古学」「古人類」の両方に参画。一番長く発掘していたのはシリアだったが、昨今のイランとともに戦禍のため今は行けなくなっている。現在はアゼルバイジャンやウズベキスタン、トルコに発掘に行き、資料を集めて、国内に持ち帰って展示したり、研究して論文に書いたりしている。

 

Ⅲ.博物館見学

 

1.講義室内のパーテーション奥

 

(1)蝶々の標本

 鳩山邦夫元代議士の蝶々の標本。この道では有名な方で、ご自宅で蝶々を飼育してこれを標本にした。野生のものとは違って羽などが無傷の標本で数万点ある。

 

〔なんと同博物館の昆虫の専門家がお宅のそれら蝶々のお世話のお手伝いをしていた縁で、標本をいただいたそう!〕

 

2.6階・4階の収蔵庫

 

〔ここからは、西アジアで発掘された、石器、土器、骨などが収蔵されたバックヤード。普段、一般の入館者は観覧することのできないエリアだ!〕

 

(1)発掘の許可

 発掘に際しては輸出許可をとって、日本に持ち帰っている。たとえば、1956年にイラクの発掘に行った際、途中のイランでも発掘しようかという話になったとき、当時の王様が「ぜひ発掘していってほしい」とおっしゃった。当時から親日的だ。

 

[おー、イスラム革命以前の王政イランだね。]

 

(2)収蔵方法

 持ち帰った資料は、無数の木箱に収めて、それぞれ、発掘したNo.・時期・場所・地層・内容などをレッテルして、棚に収めている。パソコンからデータベースで検索ができ、収蔵庫内の「どの通りのどの棚」にあるかがわかるようになっている。

 

[壁面はもとより、狭い通路以外は、床面から天井近くまで棚がびっしり。確かにおびただしい資料点数だ!西アジアでは、8千年ほどまえに世界で最初に牧畜が始まったそう。これらの資料から、その詳細が研究されたようだ。〕

 

(3)ろくろの石

 土器を作るためのろくろとして使われた円形の石もあり、およそ7200年前のもの。同じ遺跡から「土器を作っている工房」が見つかったことから、ろくろと考えている。

 

〔考古学の先生が定年をむかえられたり、お亡くなりになったりすると、ご自宅にあった資料が寄贈されてくるそう。整理が追いつかないので、段ボールのまま通路に山積みも!〕

 

(4)鎌

 石で作った鎌で、当時麦の刈り取りをやっていたもの。動物の角にアスファルトを接着剤として石器を取り付けていて、7000年ほど前のもの。

 

(5)足型

 9000年ほど前の地面に足跡が残っていて、サンダルを履いているのがわかる。サンダルは、天然石膏でつくられたこの「足型」に皮をまいて作られていたようで、現代では木製の足形をつかっているのと全く同じ作り方だ。

 

〔実際の資料をただ見ただけではピンとこないが、そうやって説明されると、「へー!」となるね。〕

 

(6)石器からわかること

 たとえば、石器の資料を持ち帰って、石器の作り方を研究する。国内で実際に原料となっていた黒曜石をいろいろな方法で割ってみて、出土した石器と同じようになれば、「こんな方法で石器を作っていた」という研究になる。そうすると、時系列でとか、地域別にどう違うか、などの研究につながってゆく。

 

 資料に残っている付着物を調べることもある。例えば、接着剤として使われたアスファルトは、中東地区では広く存在しているが、成分を調べると産出地域がわかり、出土地域との間で交易がおこなわれたことが、わかる。

 

〔黒曜石って、天然のガラスのような黒い石で、割ると角が鋭利になるんだって。〕

〔6階には発掘されたバラバラ状態の土器破片などだったが、ここからの4階収蔵庫ではそれらを修復して、元の姿になったものがずらり。おー、土器の破片が「壺」に姿を変えている!〕

 

(7)復元した土器

 3000~3500年前の土器で、1950年代から60年代にイランの墳墓から発掘されたものを修復した。当時は、シルクロードを挟んで日本とペルシャの関係を調べる研究だった。お墓の装飾品として、正倉院にあったのと同じようなカットグラスもあった。

 

〔カットグラスは現地の骨董屋にいっぱいあったが、日本隊では発掘されず、土器だけ。盗掘屋に遅れた? おっと、そういうこと?!〕

 

 土器の表面からは植物油が検出されていて、注ぎ口のついた土器から油を死者にかけていたゾロアスター教の儀式に使われたと考えられる。

 

〔現在でも、英国チャールズ王が戴冠する際に、頭から油をかける儀式があったとのこと。〕

 

(8)粘土板

 粘土板に楔形文字が記された本物。3000年ほど前の辞書で、シュメール語とアッカド語の対訳。5000年ほど前に常用されていたシュメール語は当時すでに死滅してアッカド語がつかわれていたが、日本語における漢字や欧州語におけるラテン語のように、大事な文書はシュメール語で書くしきたりがあり、このような辞書が必要だった。

 

〔発掘したものではなく、マーケットに流通していたものを入手した方から寄贈されたそうだ。恐るべし、盗掘品/骨董品マーケット!〕

 

(9)許可書

 発掘許可、輸送許可の書類。70年分全部保管してある。

 

3.2階・1階の展示室

 

〔ここからは、一般に公開しているエリア。休館日を除いて、無料で見学できるらしい。ジャンルも考古学から動物学、社会史、科学装置まで、様々!まずは、2階エリア。発掘現場をテーマにした展示で、まさに西秋先生のご専門の領域だ。〕

 

(1)ネアンデルタール人の骨

 メソポタミア(イラク北部)のネアンデルタール人。2歳前後の幼児と25歳の男性の頭蓋骨で、いずれも数万年前の実物。ネアンデルタール人は、現代人ホモサピエンスと共通の祖先から分岐し、同様に石器を使っていた。

 

〔分岐は70~80万年前で、4~5万年前までは現代人と一部交雑しながら共存していた!〕

 

 ホモサピエンスが主にアフリカで進化したのに対して、ネアンデルタール人は欧州や西アジアで進化した。ホモサピエンスに比較して、体形は大きく腕っぷしは強いが、短期記憶や学習能力で劣り、その結果絶滅し、ホモサピエンスだけが現代まで生き延びた。

 

(2)ネアンデルタール人が出土したエリアの詳細地図 〔机一面の地図。集落かな?どこから何が出土したかが克明に記されている。おっと、この地図は撮影禁止らしい。〕

 

〔1階に降りてきた。「モノの文化史」の展示〕

 

(3)日本の縄文時代の出土品 〔全身骨格、土器、土偶とずらーっと並んでいる〕

 

〔次は「無限の遺体」の展示〕

 

(4)動物のはく製 〔馬、牛、アルパカと迫力満点、鶏も多数。〕

 

(5)動物の骨 〔ゾウ、カバ、サイ、キリンと大型獣の骨。どれも動物園で飼われていたものの骨を収蔵している。〕

 

〔そして「標本回廊」。〕

 

 (6)通路に沿って展示された様々なジャンルの標本 〔小惑星イトカワの模型、今話題のレアアース泥、鉄鉱石/マンガン鉱石、三葉虫/ウナギの稚魚、中生代の海洋爬虫類の右前足の化石/その胃の内容物アンモナイト、ニュージーランドに生息した巨鳥モアの卵、蝶、と実にバラティー豊かな展示!〕

 

〔そして最後は「オープンラボ」。通常、博物館に入館すると真っ先に目にするエリアで、展示物は更に超バライティー豊か!〕

 

(7)クジラの肋骨 〔これは東大医学部比較解剖学からの寄贈品。〕

 

(8)ナウマンゾウ牙の化石 〔なんと、田端駅構内からの出土!〕

 

(9)日本産原油標本 〔埋蔵が豊かだったなら、ホルムズ海峡なんて・・〕

 

(10)日本産鉱物 〔水晶、鉛鉱、銅鉱、マンガン鉱、と豊か。〕

 

(11)日本出土の埴輪 〔茨城県出土の古墳時代のもの。〕

 

(12)ネアンデルタール人復元体 〔これは、白人の幼児にそっくりだ!〕

 

(13)原爆にさらされた瓦 〔広島、長崎の実物で、いずれも爆心の極近傍。〕

 

(14)測定装置 〔最新鋭の年代測定装置など、大きな測定装置がガラスの向こうに並んでいる。これも博物館が所蔵して、測定もするんだって。筆者が理解できたのは放射性同位元素C14による年代測定装置くらい。あとはちんぷんかんぷん。〕

 

Ⅳ.見学後の質疑応答

 

Q1:1956年の発掘では非常に多くの資料があったが、研究に際してどのように仮説を立てたのか?

A1:1956年の発掘はイラクとイランで、文明の起源を調べるという目的だった。1950年代は第二次世界大戦の結果、現代文明はとんでもないことをやらかしたとの反省から、文明について考え直そうとの研究が盛んになった。西アジアの古代文明であるメソポタミア文明は世界最古で、それが成立するためには農業がなければならないとの仮説があって、農業の起源を調べようとした。農業は麦類と豆類が初めで、「麦と豆の野生種が存在していた場所」とし、現代の植生から、このあたりではないかと考えて発掘調査した。実際には東大隊が行った場所は、ちょっと外れていて、今思えばもう少し山側がよかった。当時イラン政府が指定した候補地を3か所から、その一つを選んで発掘した。

 

Q2:西アジアで発掘された石器の材料となる石の産地が、発掘場所と異なることがあるか。また交易の証左となるか。

A2:石器を作ることができる石は、ガラス質でよく切れるもので、種類はそう多くない。その中で最も鋭い刃になるのは、黒曜石で、この石は産地がよくわかる。8000~9000年前の遺跡でも千キロ程度離れた場所で産出した黒曜石が使われていることがある。一人の人が運んだというより、間で中継する何人もの手によって徐々に伝わってきたと考えられる。これは数学モデルの材料にもなっていて、一般的には産地から離れるにつれて黒曜石が見つかる頻度が下がるが、途中の中継地で頻度が不連続的に上がったりする。産地としては、トルコやアルメニアに集中していて、それらのサンプルを多く保有しているので、それらと比較して産地を推定する。

 交易という点では、黒曜石だけではなく、ほかの素材でもいろいろなことがわかっている。例えば、地中海と黒海とオマーン海では貝が異なるので、遺跡で見つかる貝がどこで採れたかがわかる。アスファルトにしても同様。このように、私のやっている黒曜石をはじめ、交易の研究は、盛んにやられている。

 

Q3:今の質問に関連して、わかっている中で最も古い交易は、いつごろか?

A3:アゼルバイジャンでいうと、6万年前のネアンデルタール人の遺跡で、300km離れた産地の石が見つかっている例がある。この程度の距離だと所有者自身が移動した可能性も残るが、交易についてはこのように結構な昔からあったと考えられる。

 

Q4:今後、考古学に期待される内容は?

A4:先ほど館内見学で、「ネアンデルタール人とホモサピエンスの違い、なぜ片方だけが生き残ったか」を話したが、この点は今後研究すべきことが山積みだ。我々も大きな科学研究費を得て、これを研究している。両者を比較すると、ホモサピエンスの方がイノベーションを多く起こしている。その理由が、認知能力によるものなのか、人口の多さによるのか、あるいは住環境によるのか、などを研究する。ネアンデルタール人は欧州の寒冷地にいたので、あまり人口が増えず、体格も良かった。ホモサピエンスはアフリカの温暖地にいて、華奢だったので、高い人口密度だったと考えられる。このあたりが理由なのか、掘り下げたい。

 

Q5:関連して、ネアンデルタール人とホモサピエンスが共存した時代があって、肌の色が前者は白く、後者が黒いということであったが、両者は祖先が同じでそのあと進化が分かれたと考えてよいか。

A5:その通り。

 

Q6:当館の収蔵品で、国宝や重要文化財はあるか。

A6:国宝はない。重文は、次の通り。

  ①大森貝塚の出土品群

  ②秋田県の縄文時代の土面

  ③弥生式土器の第一号

 このうち、①は曰くがあって、当初の出土品が一括で重文に指定されたが、その後、さらに多数が出土したので、後者は指定されていない。我々としては、いずれも大切にしていて、重文は文化庁の価値観、東京大学には東大の価値観があってよいと思っている。

 

Q7:メソポタミアで9000年前の焼けた土器が見つかっているとのことだったが、当地ではいつごろから火を使っていたのか。

A7:遺跡で火が使われていた証拠はいろいろあり、例えば150万年前のものもある。これらは、落雷・山火事などの「野火」を使ったものの可能性がある。例えば、一か所だけで焼けている、石で囲ってある、というような人類が「コントロールした火」が出てくるのが、70万年前くらい。これはメソポタミアではなく、イスラエル辺りやアフリカで見つかっている。火の起こし方について可能性が高いのは、天然の鉄鉱石と石器の材料をぶつけて出る火花か。

 

〔150万年前の火、70万年前の現代人誕生、3千年前の辞書、と日本史の教科書で習うよりはるか昔のロマンを聞いていると、たった数十年のわが身の悩みなど、小さい小さい、と感じた筆者でした。ということで最後に、先生方にも入っていただいて講義室で記念撮影!〕

 

 最後になりますが、ご多忙な年度末、しかも休日にもかかわらず、赤門技術士会見学会に多大なご協力をいただき、素晴らしい見学会の機会を与えてくださった、総合研究博物館の西秋館長をはじめとする皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

(赤門技術士会幹事 萩野 新)